「今に受け継ぐ先駆の精神」
日本で最初の生コン工場は昭和24年11月15日操業を開始し、平成19年10月まで活躍した東京エスオーシー㈱業平橋工場である。
最初の生コン出荷日を記念し、11月15日を「生コン記念日」として制定されております。
東京エスオーシーNEWSとして、平成11年11月に「50周年特集号」を発行し、今に受け継ぐ先駆の精神と、生コン産業の半世紀の歴史を刻んでおります。
生コン産業の誕生
-業平橋に日本初の生コン工場-
大正12年の関東大震災直後に、復興局道路課によってミキシングプラントが設置され、下谷、浅草方面の道路工事にダンプカーで輸送された記録が残っています。これが日本の生コンクリート工場の先駆けと云われていますが、コンクリートの販売ではなく現場プラントに近いものでした。
産業としての発祥は、磐城セメント㈱(現、住友大阪セメント)が全額出資で設立した、東京コンクリート工業㈱が東京都墨田区押上町7番地の東武鉄道業平橋駅構内に昭和24年11月、業平橋工場を建設したことに始ります。小野田セメント製造の元社長河内通祐(元東京スミセ生コン社長河内三郎の父)から磐城セメント㈱斉藤次郎社長はに生コン会社設立の構想が持ち込まれたのは昭和23年7月頃である。社長就任間もない斉藤社長は、生コンの将来性を期待してこれに応じ、昭和23年12月、資本金300万円の東京コンクリート工業㈱が設立され、河内通祐が社長に就任、工場建設に着手することになった。
翌24年11月に日本初の生コン工場・業平橋工場が完成した。同年12月に全額出資の磐城コンクリート工業㈱を設立し、東京コンクリート工業、磐城商事など五社を合併、セメントの製造部門もここに移されました。
創業当時は、輸送・製造面で苦労が有ったようですが試行錯誤の末、輸送方法も確立し、安定した品質の生コンが供給され普及し始めました。昭和31年にはセメント各社が6大都市に工場を増強し、36年には全国で137工場を数えるまでになりました。
昭和24年操業当時の業平橋工場
生コンの最初の出荷は地下鉄銀座線・三越前の出入口の補修工事だったといわれている。
昭和25年ダンプ式運搬車が勢揃いした工場
ダンプ式運搬車に改良されたが、荷卸時は生コンが分離し加水再練して打設するなど大変な苦労であった。
-生コン製造設備-
業平橋工場のプラントは建設技術研究所の吉田徳次郎博士の指導を受けて、日本建機㈱が開発したウオセクリーターを採用し、16切のペーストミキサ1基と14切のドラムミキサ1基を備え、日産150m3の能力を持っていました。
材料計量は、質量計算であったので、従来のマスや袋で量る容積計算から比べると格段と進歩したもので、質量計量方式へ移行させたことで品質は画期的に向上しました。
その後配合の種類の多い生コンクリートの製造には不向きであったようで他の装置に変遷していった。
ウォ・セ・クリーター
ウォーター・セメント・コンクリートの略。吉田徳次郎博士が、昭和4年に発表した「コンクリート材料を混合機に投入すべき順序について」の理論に基づき、日本建機㈱が開発した。
ペーストミキサーで一定割合の水、セメントでペーストを造り、これに質量で量った砂、砂利とをミキサに投入して練り合わせると、より高い強度が発揮されるコンクリートが作れるとの理論である。
-磐城コンクリート工業㈱の事業案内-
当時の生コンクリート事業案内
「生コンクリート」の名称が使われている
生コンクリート生産工程図
生コン草創期の施工・建造物
-原材料も良好・施工・養生も丁寧-
当初、道路舗装や補修、土間コンクリートなどに使われていた生コンクリートも、昭和25年頃になると建築や土木鉄筋コンクリート用の受注が増えてきました。しかしダンプ式の運搬車による搬入には限界があり、当時は現場加水の方法が東京都建築材料検査所などの承認を得て行われていました。
プラントでの練り混ぜ時に単位水量を減じ、スランプ0程度の生コンとしてダンプで運搬し、現場に設置したドラムミキサで水を加えて再練りする方式も採られていました。
当時使用された原材料は良質で、コンクリートの施工や養生も丁寧であり、その頃の建造物で立派に現存するものも少なくありません。都心に残るいくつかのビルもこの方法で建造されていますが、代表的なものとしては八重洲通りにあるブリジストンビルはその後外装工事を施しましたが、本体コンクリートは50年以上前の加水再練りした生コンによるものです。
-当初の生コン打設現場-
亀井戸・建設省道路工事現場
当初は道路、補修、土間コンクリートの使用が主でした。
東京温泉新築工事現場
最初の建築物件に生コンが使用された工事
-当時の生コン施工建造物-
鋼材倶楽部
中央区萱場町2丁目
ブリヂストンビル
定礎には起工1950年6月・竣工1951年11月とある。
当時のコンクリートに対面できる。
-生コン発展の基となった地下鉄工事-
丸ノ内線第一期工事(池袋・御茶ノ水間)は昭和26年4月土木工事に着手し、2年9ヶ月の歳月と51億7800万円の建設費を要して昭和29年1月20日開通しました。
帝都高速度交通営団(営団)の丸ノ内線建設史には「隋道の建設には各種コンクリートを多量に必要とするが、これらを工事現場で調整する事は難しく、生コンクリート製造工場から直接購入すれば、工事の進捗状況に合わせて必要量を購入でき、かつ工場内でセメント、砂利、砂などの配合比率が正確に混合され、強度の均一性を保つ事が出来るなど経済上、技術上の利点がある」と生コンクリートを使用した理由が述べられている、更に「なお生コンクリートを多量に使用し始めたのは我が国では営団丸ノ内線建設後が最初である」と結んでいます。
地下鉄工事も生コンで
道路上より直接地下ホッパーよりコンクリート打風景
延びる地下鉄生コン路線
頂部コンクリート打風景
-AEコンクリートを採用-
| -傾胴型アジテータ車の開発-
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「生コンクリート」が社会的な信用を確立したのは、昭和26年着工の営団・丸ノ内線地下鉄工事に8万3千m3と大量に使用されてからと云われています。
当初営団側には、運搬手段・品質・供給体制などの面から使用を危惧する向きもあったといわれていますが、磐城コンクリート工業が、①AEコンクリートの採用 ②生コン運搬車の改良 ③池袋工場の建設 など地下鉄工事遂行に万全を期す姿勢を示し、実現したと言われています。
生コン工場がAE剤を初めて使用したのは業平橋工場で、昭和25年後半のことでした。折から建設中の池袋工場建設の自家用コンクリートに使用したのが最初と云われています。AE剤を使用することでコンクリートの均一性と流動性が高まり、運搬による分離も少なく、施工に便利という事が社会的に認知され、傾胴型アジテータトラックの稼動とあいまって、「生コンクリート」の技術的基礎が出来上がったと云われ、その後の生コン産業は飛躍的に拡大することになりました。
磐城コンクリート㈱池袋工場
昭和26年4月、国内2番目生コン工場として設立した池袋工場は、「AE剤コンクリート」を最初に製造・販売し、生コンクリートの品質向上に寄与した。
昭和27年国産初の傾胴型トラックアジテータ車
「イワキ生コンクリート」の看板と側板は、開発に苦心した動力伝達部分や軸受方式を遮蔽するために付けられ、その後も寸法を小さくして「住友大阪生コンクリート」の看板となって歴史と共に生きています。
参考文献
丸ノ内線建設史(営団)・コンクリート技術史(政村兼一)・生コンクリート産業史(猪熊猛雄)・住友セメント80年史(住友社)・
草創期の生コン輸送(田代芳夫)・20年の歩み(全生工組連)・東京エスオーシーNEWS創刊号